平松政次には「カミソリ平松」とは別に、「ガラスの平松」「ガラスのエース」という呼び名がありました。
鋭いシュートで打者を圧倒する一方、故障や体調不良によって登板を回避することがあったためです。
ただし、この異名だけを見て、平松を体力のない投手だったと評価するのは正確ではありません。
なぜ「ガラスのエース」と呼ばれたのか大きな理由の一つが、肩の故障です。
週刊ベースボールの特集記事によると、平松はシュートを投げるようになってから肩に負担を抱えるようになりました。
本人も、シュートを投げるフォームについて、肩を痛めやすく、他の投手には勧められない投げ方だったと振り返っています。
1975年ごろから球速が落ち、シュートの切れ味も変化しました。その後は投げ方を工夫し、ボールにひねりを加えるなど、変化球の質を保つための試行錯誤を続けています。
1980年代に入ると肩の痛みはさらに深刻になり、1982年には引退を考えるほどでした。
「ガラス」という異名とは裏腹の驚異的なスタミナここで注目したいのが、実際の投球記録です。
平松はシーズン200投球回以上を7度記録しています。
加えて、1969年から1980年まで12年連続2桁勝利を達成しました。
故障が多かったという事実と、長期間にわたって投げ続けたという実績は、決して矛盾しません。
むしろ、体に負担を抱えながらも、先発だけでなく救援登板にも対応していたことが、故障と高い投球回数の両方につながっていました。
週刊ベースボールの2019年の特集では、平松自身も当時の登板スタイルについて、先発完投後でも休養を1日挟んでベンチ入りし、必要に応じて救援登板することがあったと振り返っています。
1982年に引退を決意、それでも200勝を目指した肩の痛みが深刻だった1982年5月、平松は関根潤三監督に引退を申し出ました。
最後の登板として設定された中日戦では、5回を1失点に抑えて勝利投手になっています。
当時、本人は球速が100キロ程度しか出なかったと回想しています。それでもチェンジアップなどを使った投球で相手打者を打ち取りました。
その後、トレーナーから肩の筋肉がまだ使えることを伝えられ、200勝を目指すよう勧められます。
平松は現役を続行し、翌1983年に通算200勝を達成しました。
この記録は、故障と向き合いながら投げ続けた18年間の集大成でした。
「ガラスのエース」という異名は、故障の多さを表す一方で、何度傷ついてもマウンドに戻ってくる平松の姿を際立たせています。
実際、週刊ベースボールの2019年の特集は、傷が入っても簡単には割れない防弾ガラスになぞらえて、その投手としての強さを描いています。
この異名を理解するには、故障歴だけでなく、201勝という結果も一緒に見る必要があります。
【平松政次の投手成績と現在】201勝を残した名投手のその後

平松政次の評価を支えているのは、個性的な変化球や巨人との名勝負だけではありません。
日本野球機構の公式記録を見ると、18年間のキャリアで積み上げた数字の大きさが分かります。
通算201勝と主な投手成績
プロ通算勝利数201勝
通算登板
635試合
通算敗戦
196敗
奪三振
2,045
通算防御率
3.31
完投
145
完封
28
16セーブ、投球回3360回2/3、与死球120。日本野球機構の通算記録による。
特に注目したいのは、201勝だけではありません。
145完投、28完封という数字からは、先発投手として試合を最後まで任されることが多かった当時の役割が見えてきます。
また、2045奪三振という記録は、単に打たせて取るだけではなく、打者を三振に仕留める能力も備えていたことを示しています。
主なタイトル・表彰平松が獲得した主なタイトルと表彰は次のとおりです。
- 最多勝利:2回(1970年、1971年)
- 最優秀防御率:1回(1979年)
- 沢村賞:1回(1970年)
- ベストナイン:2回(1970年、1971年)
- 最優秀投手:2回(1970年、1971年)
- 野球殿堂入り:2017年
1979年には防御率2.39を記録し、最優秀防御率のタイトルを獲得しました。
シュートの球速や切れ味が全盛期と同じではなくなっても、投球術を変化させながら結果を残したことが分かります。
2017年、野球殿堂入りを果たす平松は2017年、野球殿堂のエキスパート表彰で選出されました。
現役時代の通算201勝、沢村賞、最多勝などの実績に加え、長年にわたって大洋を支えた功績が評価されたものです。
また、岡山県や高梁市でも、その功績は顕彰されています。
高梁市は2017年に市民栄誉賞を贈呈。2018年には市内の神原スポーツ公園野球場を「平松政次球場」と命名しました。
1994年から開催されている平松政次旗学童軟式野球大会も、地元の子どもたちに野球を伝える活動の一つです。
プロ野球選手としての実績だけでなく、故郷のスポーツ振興に関わり続けている点も見逃せません。
平松政次の現在は?2026年も野球解説者として活動2026年11月現在、平松政次は79歳です。
現役引退後は野球解説者として活動しており、フジテレビ、ニッポン放送、テレビ神奈川などで解説を担当してきました。
所属するフジ・メディア・テクノロジーのプロフィールでも、野球解説者として紹介されています。
主な出演歴には、次の番組があります。
- 「プロ野球ニュース」(CSフジテレビONE)
- 「野球道」(フジテレビ系列)
- 「SWALLOWS BASEBALL L!VE」
- 「すぽると!」
- 「スポーツ特Q」
また、2006年にはNPO法人横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティの初代理事長に就任。2012年12月にはホエールズ・ベイスターズOB会の会長にも就任しました。
選手としての経験を生かし、野球の普及や地域スポーツの発展にも関わってきたのです。
平松の現在を考える際には、単に現役時代の名投手という肩書だけでなく、解説者や地域スポーツへの貢献者という側面も押さえておきたいところです。
【平松政次に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:平松政次は現在何歳ですか?
2026年11月現在、79歳です。1947年9月19日に岡山県高梁市で生まれました。
Q2:平松政次の通算成績は何勝ですか?
プロ通算201勝196敗16セーブです。635試合に登板し、2045奪三振、防御率3.31を記録しています。
Q3:カミソリシュートの名前の由来は何ですか?
長嶋茂雄が平松のシュートを「カミソリみたいだ」と評したことが由来とされています。右打者の内角へ鋭く食い込む独特の変化が特徴でした。
Q4:「ガラスの平松」と呼ばれたのはなぜですか?
肩の故障や体調不良などで登板を回避することがあったためです。ただし、200投球回以上を7度記録するなど、実際には非常にタフな投手でもありました。
Q5:平松政次は巨人ファンだったのですか?
はい。少年時代から巨人ファンで、特に長嶋茂雄に憧れていました。高校時代には岡山遠征中の長嶋と対面しています。プロ入り後は大洋の投手として巨人戦51勝を挙げました。
Q6:平松政次はどこの球団でプレーしましたか?
1967年から1984年まで、大洋ホエールズと横浜大洋ホエールズでプレーしました。18年間、他球団への移籍はありません。
平松政次の野球人生を振り返ると、岡山県高梁市で育った野球少年が、甲子園優勝、社会人野球の都市対抗優勝を経て、大洋ホエールズの大エースへ成長した軌跡が見えてきます。
そのキャリアを象徴するのは、次の5つのポイントです。
- 岡山東商業で選抜高校野球を制し、39イニング連続無失点を記録した。
- 日本石油で都市対抗優勝と橋戸賞を獲得した。
- 大洋一筋18年間で通算201勝を挙げた。
- カミソリシュートで巨人を苦しめ、長嶋茂雄との名勝負を残した。
- 故障を乗り越えて200勝を達成し、2017年に野球殿堂入りした。
特に興味深いのは、少年時代に憧れた長嶋茂雄が、後には自分の最大のライバルになったことです。
巨人に入りたいと願った少年が、大洋のユニホームを着て巨人から51勝を挙げる。その人生には、プロ野球ならではの運命的なドラマがあります。
また、「カミソリ平松」と「ガラスのエース」という二つの異名も、平松という投手の異なる側面を表しています。
鋭い変化球で打者を圧倒する技術と、故障を抱えながらもマウンドに立ち続けた精神力。どちらか一方だけでは、平松政次の本当の評価には届きません。
平松政次は、単に201勝を挙げた投手ではなく、強敵に挑み続け、自分の投球を進化させながら18年間を戦い抜いた大洋の象徴的なエースだったのです。